荒尾二造

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荒尾市とはこんな所

 九州は福岡県大牟田市の南と県境を接する熊本県荒尾市、熊本県では北西部に位置し東に小岱山県立自然公園、西に有明海を面し、南は造船と金魚のまち長洲町に囲まれた自然豊かなまちです。縄文時代後期頃より荒尾地域にも人が住み初め、奈良、平安時代を経て鎌倉時代には小代氏が下向、約330年間に渡り野原荘を治めてきました。その野原荘の西郷に属し、その後は熊本藩となり加藤氏(約40年間)、細川氏(約230年間)が熊本藩の藩主と移り変わりました。 思想家・月田蒙斎、尺八奏者宮川如山、明治期には民権運動家の宮崎兄弟(八郎・民蔵・彌蔵・滔天)子供の宮崎龍介、詩人の坂村真民や余田弦彦・海達公子・小説家荒木郁子やその他にも著名人をを輩出.、現代では歌手の関島秀樹、芸能人の「ヒロシ」も当市出身です。 産業では大牟田市の三井三池炭鉱に属する万田坑(世界文化遺産)・四ツ山坑があり、閉山までは炭鉱の町として急発展してきた。 現在は世界文化遺産万田坑、荒尾干潟(ラムサール条約に登録)グリーンランド遊園地のあるまちとして有名。  特産物に荒尾ジャンボ梨・有明海苔・マジャク・小代焼他があります。 市の人口は53000人位です(平成30年3月末現在)(内容は荒尾市発行の市史・記念誌・小冊子等を参考)                       荒尾市公式キャラクター・マジャッキー

激しくなる空襲・昼夜の火薬製造

 昭和19年(1944年)11月に大牟田市に空襲があったのを最初に翌20年6月・7月と荒尾市にも空襲が行われている、荒尾製造所も工場二棟が全焼したが犠牲者は皆無、米軍戦闘機からの機銃掃射による攻撃も数回受けている。    荒尾市内では万田・原万田・四ツ山・大島・昭和・大正地区と壊滅的な被害を受けた。総務省の記録では死者46人・負傷者295人罹災家屋878戸・約9万坪焼失・罹災者4360人と当時の人口の約12%の市民に被害を与えた。   8月12日には平井小学校でも機銃掃射を受けた。隣りまちの大牟田市では合計5回の空襲を受け、死傷者約3000人・罹災家屋12000戸以上と市内は焼の原と化した。   (総務省記録・大牟田市史・荒尾市史・大牟田の空襲を記録する会等参照) 昭和20年(1945年)になると戦況は悪化し、日本全土への空襲が本格化した。  日本各地は火の海となり、特に都市部・工業都市での空襲はひどく食糧事情も悪化、荒尾製造所も同じく食べ物は枯渇した。 火薬製造もこの頃には昼夜を問わず三交代制で作業に従事、それまでの第一・第二工場地帯に加え新たに第三工場地帯での工場完成を急がせ、出来上がった工場から随時、火薬製造の増産が開始された。(二造会冊子では第三工場地帯の工場は建設中のまま終戦とあるが、すでに稼働していたのが判明、他の倉庫・保管庫等が建設途中だった。) 昭和19年の11月から、陸軍秘匿命令で荒尾製造所の疎開地として、大分県旧溝部村(現中津市山国町)に地下工場を建設、荒尾からも人員を派遣、旧鉱山跡のトンネル内部を火薬製造工場に作り変えたり、近郊の山間部に地下工場用トンネルを数か所にわたり掘削、地下トンネルは終戦まで掘られいた。(山国町郷土誌業書・おおいたの戦争遺跡参照)  

ほんとうに終わった??・・・戦争!

「わたしが一番きれいだったとき」      作者 : 詩人・エッセイスト 茨木のりこ わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがらと崩れていって とんでもないところから
青空なんかが見えたりした  わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ  工場で  海で 名もない島で わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった わたしが一番きれいだったとき 誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった 男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった  わたしが一番きれいだったとき わたしの頭はからっぽで  わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った  わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた  そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた わたしが一番きれいだったとき ラジオからはジャズが溢れた 禁煙を破ったときのようにくらくらしながら わたしは異国の甘い音楽をむさぼった わたしが一番きれいだったとき わたしはとてもふしあわせ わたしはとてもとんちんかん わたしはめっぽうさびしかった 
だから決めた  できれば長生きすることに 年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように ね (茨木のり子さん 15歳から19歳に戦争経験。1926~2006・79才没)