荒尾の市制施行

 昭和16年には工場建設の労働力や、機械設置など専門職も不足、それまでの自由募集から徴用へと移行。資材不足と労働力不足の最大の要因として,原料輸入制限の他に兵器の大量生産と旧国鉄の関門海峡鉄道トンネル工事があります。関門トンネルは昭和12年着工から19年完成まで7年余りを要しました。九州管内で同時期に火薬工場建設が始まった荒尾や大分の坂の市では、政府と軍の鉄道輸送力向上優先の為に、コンクリートの砂や石材、セメント、鉄筋、専門性の労働力不足の影響をまともに受けています。当時の荒尾の工事月報にもその事が明記されています。荒尾と坂の市の両方の工場建設の責任者と出張所長を兼務された関重永中佐(のち大佐)は、資材の搬入の遅れと労働力不足は、より一層の最新設備と火薬製造技術を向上させる為の時間と受取り、現場を指示して努力を促しています。最新機械や装置、機器の製造工場は殆んどが関東に集中していて、鉄鋼などの資材不足の為大幅に納入が遅れています。その為工場建物は完成しても中の製造装置は無かったり、建物建設も途中中断をしています。(国立公文書アジア歴史センター防衛研究所編、昭和17年~18年「旬報」より)
 昭和17年(1942年)4月1日、旧荒尾町・旧平井村・旧八幡村・旧有明村が合併し荒尾市が誕生しました。
 同年8月には、熊本出張所から正式に「東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所」と名称がかわりました。  この頃になると石炭需要がますます拡大し石炭も不足、炭鉱でも多くの労働力を必要としました。 (軍管轄の民間軍需工場には優先して石炭が配給)、工場建設は急ピッチ、翌年の昭和18年には荒尾製造所でも火薬生産が始まりました。

生活も、青春も火薬工場に捧げた

 先ずは火薬の成形から始まった。昭和18年8月に第二工場帯の成形工場が完成し、他の製造所より出来上がった火薬・爆薬(粉状)を搬入して、それを砲弾などに詰める為の形作りから始めました。同年11月に製造機械や機器の試運転があり、火薬・爆薬の生産が開始されます。 日本中、健康で働き盛りの男子は召集令状により召集され皆軍隊へ、残った者は勤労奉仕で工場へ、昭和16年に入り極端な労働力不足に陥り、傷痍軍人の採用強化や兵役満期者の応召や徴用により人員確保をしました。新たな火薬工場建設は建設開始当初から、終戦まで十分な労働力を確保できませんでした。(荒尾製造所もピーク時は3000人近くいた従事者も終戦時は2000人までになった)
 荒尾製造所では学徒動員令発令前から、工場の道路建設や火薬工場で男子学生が従事しています。次いで女子学生も道路建設や火薬製造に携わりました、寮生活を送り男女とも多くは日々の生活は全て工場の中、手足や肌は黄色の火薬色に染まりながらも火薬製造と工場建設に心血を注いだ青春時代。     
 学校による授業は行われず、機関銃の取り扱い・木製銃を使った訓練・警棒訓練・防火隊編成による防火訓練など大人同様の指導を受けた。

昭和18年6月25日に東条内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定。19年3月には学徒勤労動員の通年実施決定

19年8月には勤労動員学徒の1日10時間労働制

学徒:12才(13才共)~19才の少年少女で学校を卒業しても作業員不足の為、卒業後も火薬製造に残された。昭和18年(1943年)後半からは食糧事情が段々と悪化、工員も含め成長盛りの子供たちは栄養不足に陥り、その為工場用地内の空地で、野菜や穀物などの生産も学生たちが手伝った

荒尾二造へ従事した学徒:旧制玉名中学校・高瀬高等女学校・熊本県立工業學校・朝鮮人学校(旭中隊)・他

当時荒尾にあった三井染料玉名工場・宮内工場:福岡県立三池中学校・私立三井工業学校・他

荒尾製造所動員日記 玉中報国隊第四小隊 昭和19年8月31日~昭和20年7月6日まで 当時旧制玉名中学4年在学  中島敏隆氏提供 昭和20年6月17日夜間空襲も記されています。(当資料館で複写版が閲覧できます。)

陸軍の火薬・爆薬製品のミニ知識

東京第二陸軍造兵廠の火薬・爆薬は約160種類を超える兵器に使用されていました。

ここには抜粋した製品名を列記しています。(昭和16・17年頃の呼称)

この他に特殊なものでは風船爆弾もありました。

(参考文献:昭和44年発行、日本陸軍火薬史・国立公文書館アジア歴史センター防衛研究所編)

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