なぜ火薬工場用地に選ばれた??

条件が揃っていた。 

①石炭と重化学工場郡のある大牟田市と隣接地で、荒尾も石炭の産地であり、火薬の原材料や製造用燃料や電力が容易に調達できた。 

日露戦争で威力を発揮した「下瀬火薬(別名:黄色薬)」(下瀬雅允は旧日本海軍技官)は原料が石炭酸から作られるピクリン酸を成分とする火薬です。当時の日本は欧米諸国から輸入制限を受け 極度の石油不足、その為自国の 石炭を乾留してコークスを作る際に副生する石炭酸、ベンゼン、トルエンが火薬原料に用いられました。

②北九州~大牟田・荒尾・鹿児島へ縦断する旧国鉄鹿児島本線の鉄道が通って火薬の材料や製品の輸送網が簡単に整備出来た。  この頃の鹿児島本線は単線でしたが、荒尾駅(旧万田駅)には10本近い線路が敷かれています。荒尾駅は三井三池専用線(三池港と万田坑~宮原坑などを結ぶ)と交差する為、鉄道輸送には重要な拠点の役割をしていました。戦時中の軍需工場では鉄道輸送が欠かせなく、全国の工場や主要港へ鉄道網を整備しています。荒尾製造所も旧万田駅から火薬工場中心地まで長さ5195Mの鉄道を整備。この頃旧万田駅を中心に東西南北と線路が張巡らされていました。

③空からの攻撃を受けにくい丘陵地である事。(高低差が30M程あり東西・南北に長く広がる丘陵地に挟まれている為、他の施設への誘発爆発事故を阻止できる)

④大量の水の供給を受けられる事。(三井鉱山の開発で玉名市を流れる菊池川から導水管を整備)

これらの条件に適していました。

黄色薬・茶褐薬・茗亜薬の製造

昭和18年(1943年)火薬工場が本格稼働、黄色薬(キイロヤク)同年11月より産出、茶褐薬(チャカツヤク)19年10月より産出、 茗亜薬(ミョウアヤク)又は白薬と言い、これも20年6月より産出、ピーク時は全国生産量の30%を荒尾工場で製造した。
(火薬の呼称は当時の呼び名を記入 他の項も参照してください)

陸軍火薬のミニ知識