生活も、青春も火薬工場に捧げた

 日本全土、働き盛りの男子は兵士として皆戦地へ、残った者は勤労奉仕で工場などへと

(荒尾製造所:開所してピーク時は3000人近くいた従事者も終戦時は2000人までになった)


 荒尾製造所では学徒動員令発令前から、火薬工場で男子学生が従事した。相次いで女子学生も火薬製造に携わった、寮生活を送り男女とも多くは日々の生活は全て工場の中、手肌は黄色や茶褐色に染まりながらも火薬製造と工場建設に心血を注いだ青春時代。     

 学校による授業は行われず、機関銃の取り扱い・木製銃を使った訓練・警棒訓練・防火隊編成による防火訓練など大人同様の指導を受けた。

学徒:13才~19才の少年少女で学校を卒業しても作業員不足の為、卒業後も火薬製造に残された。昭和18年(1943年)後半からは食糧事情が段々と悪化、工員も含め成長盛りの子供たちは栄養不足に陥り、その為工場用地内の空地で、野菜や穀物などの生産も学生たちが手伝った。


                   写真は2枚とも中西玲子さん提供

東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所 平和資料館

第二次世界大戦時、国内最大規模で敷地面積100万坪を有した旧陸軍の火薬工場がここ荒尾市にあった。 「東京第二陸軍造兵廠荒尾製造所」通称を荒尾二造(あらおにぞう)と呼び、学徒を含む3000人弱の男女が働き、火薬・炸薬( 爆薬)類を製造、 陸軍小倉造兵廠(現北九州市)で砲弾や爆弾、地雷となり戦地へと送られた。 私達は荒尾二造の調査・記録・保存活動・啓発活動を通じて平和の大切さを伝えています。